聖書献上とその周辺
国 吉 栄
Sakae KUNIYOSHI
本稿公開の目的は、拙著『日本幼稚園史序説ー関信三と近代日本の黎明』(新読書社 2005)において述べた「献上聖書」に関わる記述の一部を訂正すること、および同書出版以降に検証した関係諸問題をひとまず整理しておくことである。すべてを明らかにするには至っていないが、現時点で明らかになっていることを公開することにより、将来、いずれの分野においてか、新たな研究が生み出されることを期待している[注1]。
[注1] 筆者自己紹介として単著をあげさせていただく。
『日本幼稚園史序説―関信三と近代日本の黎明』(新読書社 2005)
『幼稚園誕生の物語―「諜者」関信三とその時代』(平凡社 2011)
『森有礼が切り拓いた日米外交―初代駐米外交官の挑戦』(勉誠出版 2018)
なお、大久保利謙監修、上沼八郎・犬塚孝明共編『新修森有礼全集 別巻4』(文泉堂
書店 2015) の編纂にたずさわり、資料解説を担当した。
目 次
はじめに
第1部 明治5年の聖書献上
第1章 明治5年の献上聖書
諜者報告書
新聞が報じた聖書献上
第2章 聖書献上と森有礼とデロング
デロングと森の最後の往復書簡
デロング帰任後
聖書献上
デロングの辞任と森有礼
第2部 大隈文書中の聖書の写真
第1章 大隈文書中の聖書の写真
大隈文書中の聖書の写真とその撮影者
この写真の聖書は何なのか
第2章 もう一枚の聖書の写真
第3章 聖書の写真はなぜ大隈家にあったのか
諜者報告書はなぜ大隈家に所蔵されていたのか
聖書の写真を諜者報告書とともに保管したのは誰か
残された疑問
おわりに
< 注 >
<記>
本稿は既成のホームページの形態を用いての論文公開です。通常の論文のように全体を通して掲載することがむずかしいため、章ごとに頁を分けて掲載しています。全体は2部からなっています。下位項目を含む目次を上にあげましたのでご覧ください。左画面には章見出しのみあげております。注は本文中に収めるとともに、最後の<注>頁に一括して載せました。
はじめに
幼稚園史研究者である筆者は、その研究過程において、早稲田大学図書館所蔵大隈文書中に下の聖書の写真を見い出し、前掲拙著のグラビア頁に掲載するとともに、本文中において明治5年に天皇に献じられた聖書の写真であるとして紹介した。しかしこの写真は明治5年に天皇に献じられた聖書の写真ではなかった。まずこのことを訂正したい。

早稲田大学図書館蔵
筆者がこの写真を明治5年の献上聖書の写真であると判断した唯一の理由は、同写真が天皇への聖書献上を太政官に通報した諜者の手紙とともに大隈文書に保管されていたからであった。
明治初年、新政府はキリスト教諜者(異宗諜者)を擁し、各開港地に派遣して関係する情報を集めさせていた。大隈文書にはそれら諜者たちから届けられた報告書が保存されているのであるが、聖書の写真は、聖書献上を急報する壬申(明治5年)9月27日付の諜者の手紙とともに保管されていたのである。
筆者は幼稚園史研究者として、明治9年に創設された東京女子師範学校附属幼稚園(現お茶の水女子大学附属幼稚園)の初代監事(園長)となった関信三という人物を研究してきた。関信三(1843-1879)はかつて明治新政府のキリスト教諜者であった。そのため、関信三研究は否応なく筆者に近代日本の黎明期の諸相について考えさせることになった。聖書の写真を発見するに至ったのはその研究過程においてである。
写真を見出したのは2002年、関信三(諜者名安藤劉太郎)の報告書原本を閲覧するため早稲田大学図書館を訪れた際であった。すぐに献上聖書の写真であると思った。しかし一方で筆者は当惑した。日本プロテスタント史研究の魁人・小澤三郎氏の『幕末明治耶蘇教史研究』( 亜細亜書房 1944、日本基督教団出版局 1973 )には明治5年の聖書献上についての章があり、関係諜者報告書も翻刻されていたが、写真についての記述はなかったからである。大隈文書の諜者報告書を徹底的に研究された小澤氏は、なぜ聖書の写真の存在を公表されなかったのか。あるいは筆者が知らないだけで、この写真についてはすでに報じられているのであろうか。後日確認のため日本プロテスタント史研究の諸先達に伺ったところ、斯界の研究において献上聖書の写真の存在については知られていないとのことであった。そこで当時執筆中であった書に写真を掲載し、第一報を入れることにしたのである。
だが「献上聖書」について筆者には迷いがあった。明治5年に献上されたのはアメリカ聖書協会から宣教師ヘボンに託された英訳聖書であった。そのことを小澤氏は前掲書のなかで明確に述べ、筆者自身もそれを補強する資料を複数収集していた。しかし写真の聖書は、その厚みや、菊の紋章が付いている側が表表紙、すなわち右開き本のように思われることなどから、英訳聖書のようにはみえないのである。だが写真は聖書献上を報じた明治5年の諜者報告書のなかにあった。これをどう考えたらよいのか。
多方面から考え、また調べもしたが、どうにも迷いの壁を突き破ることはできず、2017年7月、ついに古写真研究者の石黒敬章氏をお煩わせし、大隈文書の写真を実際に見ていただくことにした。氏は、これは明治5年に撮影された写真ではない、と明言された。明治5年であれば鶏卵紙が使われているはずだがこれはそうではない、とお持ちくださった当時の貴重な写真に触らせてくださった。決定的な宣告である。筆者はこれを期にそれまでのこだわりを捨て、これは明治5年の献上聖書の写真ではない、と認識を改めた。
同時に、それではこの写真はいったい何なのだろうか、なぜ聖書献上を報じた諜者の手紙とともに大隈文書に保管されていたのか、という新たな疑問が浮上してきたのである。
以上の問題について考えるのが本稿の基本的課題である。
しかし、筆者には献上聖書について別の角度からの関心もあった。筆者は幼稚園史研究の必要から関信三研究と並行して森有礼研究に取り組んでいたが、そこでも聖書献上という出来事に遭遇していたからである。
森有礼はわが国の初代文部大臣であるが、わが国の初代駐米外交官でもあった。森は明治4年(1871)から明治6年春までのおよそ2年間ワシントンに駐在したが、不思議なことに、その間の足跡は政治史においても森有礼研究においてもほとんど知られていなかった。しかし彼の駐米時代はアメリカの幼稚園史にとってきわめて重要な時期であったから、そのただなかで生きていた森の活動の軌跡を明らかにすることは、森研究ばかりでなく不明瞭なまま推移してきたわが国の幼稚園史研究にとっても大きな課題であると思われた。筆者が無謀にも森有礼研究に足を踏み入れたのはそのためである。その過程で思いがけず発掘することになった大量の資料は、大久保利謙監修、上沼八郎・犬塚孝明共編『新修森有礼全集 別巻4』(文泉堂書店2015)として公刊された。
新資料が明らかにした森の駐米時代における特筆すべき出来事のひとつに、津田梅子ら5人の女子留学生の保護監督権をめぐる森と駐日米公使チャールズ・デロング(Charles E. DeLong 1832-1876)との深刻な対立があった。デロングは当時岩倉使節団に同行して帰国中であった。ワシントンにおける両者の対立は、使節団の正使岩倉具視・副使木戸孝允を巻き込んで日に日に拡大していったが、他ならぬこのデロングが一行と別れて帰任後、聖書献上を仲介したのである。デロングのこの行為はデロング解任という結果を招き、森の横死を引き寄せる要因ともなっていった。
禁教下での聖書献上という出来事は一般にはほとんど知られていない。にもかかわらず、筆者が研究した関信三・森有礼それぞれの、知られざる足跡の上にしっかりと刻まれていた。それは視界の悪い近代史に張りめぐらされた網目の、小さな結びの一点であった。その結び目をたぐり寄せた者の責務として、これまで知られていなかった聖書献上をめぐる諸問題について可能な限り書き記しておきたいと思う。