< 注 >


  • [注1]   筆者自己紹介として単著をあげさせていただく。
    国吉栄『日本幼稚園史序説―関信三と近代日本の黎明』(新読書社 2005)
    国吉栄『幼稚園誕生の物語―「諜者」関信三とその時代』(平凡社 2011)

    国吉栄『森有礼が切り拓いた日米外交―初代駐米外交官の挑戦』(勉誠出版 2018)
    なお、大久保利謙監修、上沼八郎・犬塚孝明共編『新修森有礼全集 別巻4』(文泉堂書店 2015)の編纂にたずさわり資料解説を担当した。
  • [注2]  1872年12月5日付 National Archives, Records of the Department of State, Diplomatic Instructions, Japan. Vol.2, No.151
  • [注3]  9月23日付記録。ただし、23日の記録は、外交史料館資料では9月13日の部の後半に入っている。従って、同文書を確認される場合は「明治五年対話書 二 米国之部二/3 〔明治5年〕9月13日」のファイルのNo.0139以降を参照されたい。
  • [注4]  重要な文書なので、参考のため原文をあげておく。
                               Department of State
                               Washington, 28th Desc 1872
    C. E. DeLong Esq.
    Sir:
          I have to acknowledge the receipt of your despatch No.304, under date of the 10th November, in which you report your proceedings in presenting to the Emperor of Japan a copy of the Bible which you received from the Reverent Dr. J. C. Hepburn for that purpose.
          It is proper to inform you that it has long been the practice of this Department to decline to authorize the diplomatic representations of the United States in Foreign countries to make presents in behalf of private individuals to the Sovereigns to whom such representations are accredited. The practice has no reference to the intrinsic character of the presents proposed to be made, but has been adopted because it is believed not to be advisable to give an official sanction to the proceedings of private individuals in such cases. It is to be regretted that you did not apply to the Department for instructions in this case; the authority to make the present would not have been accorded.
          I am, Sir,
                    Your obedient servant,
                            Hamilton Fish
    (1872年12月28日付 National Archives, Records of the Department of State, Diplomatic Instructions, Japan. Vol.2. No.160)
  • [注5]  明治6年3月8日付「米公使デロンク氏儀ニ付在米森代理公使ヘ書通ノ申立『公文録 外務省の部』明治六年三月なお、『太政類典第2編』では表題が「米国公使テロンク辞職ヲ止メン事ヲ森代理公使ニ伝フ」となっている。
    「 別紙之通米国在留森代理公使へ申遣度此段得御意候以上
    六年三月七日 外務卿副島種臣
    三条太政大臣殿
    (朱筆)申立之通 印
    明治六年三月八日
    其日附ノ貴翰致接手候ドクトル平文氏ヨリ我皇帝陛下ヘ経典献上致候儀ニ付デロング氏ノ所業不都合トノ旨華盛頓府ニ於テ評議ニ相成候由承知致候。将亦フヒシ氏ノ内意ニテ次便カリホルニヤ郵船ニテ辞表被差出候由セネラル、リチャンドル氏被候聞込候儀承リ及候然ルニ右ノ事実我皇帝陛下ノ御聴ニ入候處現今我国外交日々盛ンナル時米公使ノ如ク多年我国ニ覊住シ従来ノ事状ヲ熟知スル人ナカルヘカラス此人我国ニ滞在セハ両国交際ヲ益固牢ナラシメ利益モ又随テ起ルベシト思召今余ヲシテ足下ニ報知ナサシムルノ趣ハ米國政府ニ於テ右一件再考有之デロング氏ノ辞表御採用無之様致度此ノ良使ハ永久其職ヲ奉セシメ度我皇帝陛下切々(『太政類典』では「切ニ」)希望被致候依テ此書ノ趣旨米国外務執権ヘ御通有之テ若シ外務執権此書簡ヲ被望候ハヽ抄文差遣シ可有之候敬具
             第三月七日 副島外務卿
                   森代理公使殿 」
  • [注6]  この問題を複雑にしているのは、日本政府が必ずしもデロングを信頼していたわけではないことを示す資料があるからである。そのひとつがデロングによる特命全権公使昇格時期についての詐称である。彼は昇格辞令が届いていない(まだ書かれてもいなかった)のに、本国から特命全権公使の辞令を受けたと外務省に報告した。外務省はそれを疑い、「吹聴」という表現を用いて警戒した。また、デロングがワシントンにおいて森と対立し騒動を引き起こした状況についても、一時帰国した大久保利通から詳細な事情説明を受けていた。報告を聞いた政府は全面的に森を支持したばかりか、ただちに森を昇進させた旨を合衆国に通達した。デロングに対する政府の警戒感はきわめて強かったのである。これらについては拙著『森有礼が切り拓いた日米外交』に詳述した。
  • [注7]  余談である。これを調べるにあたり、筆者はW. H. MEDHURST, English and Chinese Dictionary(Printed at the Mission Press 1847)を用いた。ごく早い時期に上海に渡った英国人宣教師メドハーストが著した貴重な英漢字典であるが、筆者はこれを国会図書館で閲覧することができた。Vol.1とvol.2の2冊からなっているが、驚いたことに、そのどちらにも「A. Mori 1871」と記されていた。森のサインである。これは森有礼の蔵書だったのだ。森が国会図書館の設立とその蔵書に深くかかわったことについては拙著『森有礼が切り拓いた日米外交』の第3部第3章「森有礼と図書館」に詳述したが、それから150年ものちの一研究者にその恩恵を与えてくれたことに、感慨と感謝の思いを抱いた。
  • [注8]  小栗憲一 真宗大谷派の僧侶。大谷派の学僧豊後妙正寺香頂の弟で、幕末に長崎で降魔窟というキリスト教排斥を目的とする結社を作り、東西本願寺の破邪僧を結ぶ要として活動した。早い時期からの弾正台官吏で、諜者報告書には「小栗大先生」宛のものもある。
  • [注9]  ここで三条実美と豊田道二の関わりについて一言ふれておきたい。明治6年2月に切支丹制禁の高札が降ろされるが、その直前、三条は上等諜者であった豊田道二ほかふたりの諜者を呼び寄せ、直々にねぎらいの言葉と報奨金を与えている。「三条殿に呈し置候」とある一連の報告書が三条に届けられた直後のことであった。諜者たちは「以来一層ノ勉力」をしてきたが、すでに自分たちの存在はむなしいと悟っていた彼らは、同年10月に「西教蔓延防止困難ニ付取扱掛及諜者一同免職願書」を提出した。だがそのとき免職が認められることはなかった。諜者は外国人の内輪の動きを知らせる手段として依然として機能していたからである。しかし翌7年7月、諜者たちは「贅物」として一斉に解雇を言い渡される。すでに(関信三を含め)半数がみずから辞職していたが、残っていた者たちは突然行き場を失い途方に暮れた。その際、三条は諜者たちの不満をしずめるためであろう、豊田道二をお抱え諜者として手元に引き取ったのである。以上については前掲拙著『関信三と近代日本の黎明』(173~178頁)および『幼稚園誕生の物語―「諜者」関信三とその時代』(100~110頁)に詳述した。
  • [注10]  日下部金兵衛が最晩年に通った芦屋市の芦屋組合基督教会(現芦屋キリスト教会)の昭和7年4月24日付「週報」に掲載された金兵衛追悼文に、金兵衛は宮廷に召されたと記されている。「氏は実に天保十二年十月五日山梨県甲府に生まれし人。十五六歳の時一人で其の甲府山麓の山奥から横浜に出られ、早くも泰西の文明に志を向け写真術を学んで、日本に於ける写真屋の老祖となり遂に宮廷にも召され、当時『金兵衛』といふならば誰一人知らない者のない程な人物となったのである」(中村啓信『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』国書刊行会 平成18 107頁)
  • [注11]  津守真「関信三の幼稚園紹介」『幼児の教育』第61巻2号 1962 
                  林竹二「森有礼研究第一   森駐米代理公使の辞任」」『東北大学教育学研究年報』
                                    第15集 1967
                                「森有礼研究第二   森有礼とキリスト教」『東北大学教育学研究年報』 
                                    第16 集 1968
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