残された疑問
大隈文書中の写真の聖書は何なのか。筆者の内に長くとどまっていた疑問は、ここまできてかなりの部分が解消されたように思う。
明治5年の禁教下に、駐日米公使デロングが仲介した聖書の献上を許可したのは大隈重信であった。自宅に保管していた大量の諜者報告書の束のなかに、それも他でもない聖書献上を急報した諜者からの報告とあわせて聖書の写真を収めたのも大隈重信であった。従って、あの写真は単なる聖書の写真ではなく、大隈が秘かに、仲介者として、あるいは献上者として、直接かかわった思い入れのある献上聖書の写真であると考えるほかはない。写真は明治23年から明治30年のあいだに日下部金兵衛によって撮影された。写真の聖書はこの間のいずれかの時期に献上されたものと思われる。
以上がこれまでに明らかになったことである。しかし、では写真の聖書を献上したのは大隈自身か、あるいは誰かの仲介をしただけなのか、という新たに立ち上がってきた問いについては、残念ながら筆者は答えを持たない。
最後に参考のため、前掲『大隈重信自叙伝』の巻末「大隈重信略年表」から聖書が献納されたとみられる時期の大隈の足跡をあげておく。『引照 舊新約全書』の出版は明治22年、日下部金兵衛が横浜本町に写真館を開いたのは翌23年、山本秀煌が「献上聖書の見本」として金兵衛の写真を示した第9回福音同盟会総会は明治30年7月の開催である。
- 明治22年10月18日 玄洋社員来島恒喜に外務省門前で爆弾を投げられ負傷。右足切断
12月24日 外務大臣を辞任、枢密院顧問官となる
明治24年11月 8日 自由党総理板垣退助と会談し、自由・改進両党の提携を協議
11月11日 枢密顧問官を免ぜられる
12月28日 立憲改進党に復党し、代議総会会長に就任
明治26年 4月 1日 『郵便報知新聞』にて「大隈伯昔日譚」の連載が開始される
明治28年 6月 『大隈伯昔日譚』刊行
明治29年 3月 1日 立憲改進党、立憲革新党等と合同して進歩党を結成
4月21日 約30年ぶりに佐賀帰省の途につく。5月にかけて県内各地訪問
9月22日 外務大臣(第2次松方内閣)に就任
明治30年 3月29日 農商務大臣を兼任
5月 日本女子大学校創立委員長となる
なお、前掲中村啓信『日下部金兵衛』によれば、写真を撮影した日下部金兵衛は宮中に召されたことがある [注10] 。写真が撮影された、あるいは撮影を依頼されたのはこの時であったとも考えられる。そうであるとすれば、明治20年代にはすでに東京に複数の有名写真館があったにもかかわらず、横浜の金兵衛が撮影を依頼されたのにはそれなりの理由があったはずである。金兵衛に取り次いだ人間もいたはずである。ここに大隈とのつながりを考えることはできないか。
- [注10] 日下部金兵衛が最晩年に通った芦屋市の芦屋組合基督教会(現芦屋キリスト教会)の昭和7年4月24日付「週報」に掲載された金兵衛追悼文に、金兵衛は宮廷に召されたと記されている。「氏は実に天保十二年十月五日山梨県甲府に生まれし人。十五六歳の時一人で其の甲府山麓の山奥から横浜に出られ、早くも泰西の文明に志を向け写真術を学んで、日本に於ける写真屋の老祖となり遂に宮廷にも召され、当時『金兵衛』といふならば誰一人知らない者のない程な人物となったのである」(中村啓信『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』国書刊行会 平成18 107頁)
写真の聖書は繊細で見事な装幀であるから、装幀という面から考える道もあるであろう。
装幀についてやみくもに考えていた筆者に、『日下部金兵衛』の著者、中村啓信國學院大学名誉教授は「そもそも表紙の菊花十六弁紋は皇室の紋であり、献上者のすることではない。献上を受け入れた明治天皇が御文庫または図書寮に収める際に装幀を改めたのではないか」とご教授くださった。大変ありがたいご教授である。
時間を要したであろう装幀が献上後になされたのであるならば、聖書が献上されたのは、明治22年に『引照 舊新約全書』が出版されてあまり日を経ないころであった可能性が出てくる。旧新約全巻の完成という「快挙」の喜びと勢いをもって、出版されたばかりの聖書を献上したと考えることができるからである。そこに献上者の「思い」というものをくみ取ることもできる。
そうであるとすれば、聖書は献上されたのち、皇室御用達の店、あるいはそれ以外の技術者の手によって装幀され、完成後に依頼を受けた金兵衛が撮影し、台紙に貼られたあの写真が完成した、という流れになる。そしてこの一連の流れのどこかに、大隈重信が存在していたのである。
明らかにすべきことはなお多く残されているが、筆者の力及ばず、問いが残るまま筆を置くことをお許しいただきたい。