第1部 明治5年の献上聖書
第1章 明治5年の聖書献上
明治5年に天皇に献上された聖書については、米国聖書協会(American Bible Society)が1865年(慶応元年)に出版したThe American Bible Society's Manual に最初の記録がある。 'American Bible Society giving the Scriptures to the Rulers of the Earth(米国聖書協会、世界の支配者たちに聖書を贈る)'という見出しのもと、以下のように記されている。
1856年秋、ニューヨーク在住米国聖書協会副会長のひとりが、世界の君主や政権担当者たちに聖書を贈るとよい結果が得られるであろうとの考えに導かれ、費用として1000ドルを管理委員会に委ねた。委員らはこの提案を実現する責任を負うことに賛同し、実行委員会を設けた(略)。委員会は協会発行の上質四つ折り判英訳聖書 Imperial Quarto を細心の注意と費用をかけて製本し(bound with more than ordinary care and expense)、優美な紫檀の箱(an elegant rosewood case)に収め、書簡を添えて世界の為政者たちに贈った。それに対して多くの感謝の返信が各国から寄せられた。彼らに送った手紙と、彼らからの返信は1冊の本にまとめられる予定である。聖書と聖書運動を愛するすべての者にとって貴重な書となるであろう。(同書22頁)
1865年という早い時期にまとめられた貴重な記録である。これによって以下のことが明らかになった。1856年の秋に米国聖書協会の副会長のひとりが1000ドルを寄付し、それをもとに世界の君主や為政者たちに贈るための特別装幀の聖書が作られた(総数は不明)。このとき選ばれた聖書はImperial Quartoであった。Imperial Quartoはちょうどこの年に米国聖書協会(以下ABSと略す)が作成した最初の大型講壇用聖書であった。
米国英語聖書史(The English Bible in America, A Bibliography of Editions of the Bible and the New Testament Published in America 1777-1957. Edited by Margaret T. Hill, Librarian, American Bible Society, 1961)によれば、ABSはこの聖書を神学校や神学部・聖書学部をもつ大学に1部ずつ寄贈することを決めた。一般への頒布価格は、装丁の違いにより、10ドルから12ドルであった。下の写真の聖書はそのひとつである。
(米国聖書協会蔵)
ABS会長を長とする委員会は、このImperial Quartoを各国の君主らに贈るために細心の注意と費用をかけて装幀し、紫檀の箱に収めた。
なお、前掲引用文の後半に聖書の寄贈先から感謝の返信が届いたとある。後述するように天皇も受領後自筆書簡を送っているが、わが国の場合、聖書の献納は明治5年(1872)であったから、この時点ではまだ聖書は天皇の手に渡っていない。
1859年、その1冊が来日する宣教師ヘボン(James Curtis Hepburn 1815-1911)に託されて日本に渡った。ヘボンによれば、来日後、初代駐日米公使ハリスを通して献上しようとしたが、ハリスは同意しなかった。1861年2月14日付でABSに送った手紙のなかで、ヘボンは次のように述べている。
日本の皇帝に献上すべく私に託された聖書はまだ献上されていない。この件についてわれわれの公使ハリス氏に話をした。こうしたことは公使を通してのみ実現できるのであるが、公使は適切な時期はまだ来ていないと考えている。いつが適切な時期かを判断することは公使に委ねている。聖書はケースと箱に入ったまま、まだわが家にある。ハリス氏はこれまで幕僚たちそれぞれに漢訳の新約聖書を贈ったが、それについて何の意見も聞いていないとのことである。(Bible Society Record, vol.VI, no.6)
ヘボンは以来聖書を大切に保管し、実に13年間も献上の機会を待っていた。そして幕府が倒れ、新らたな時代となった明治5年、ついに第4代駐日米公使デロングが献上を取り次ぐことになったのである。
諜者報告書
キリスト教禁教下における聖書献上という事実を詳細に記録したのは太政官諜者であった。
諜者は当初、弾正台に所属していた。弾正台はその昔大宝律令に定められていた官制のひとつで、内外の非違を糾弾し風俗を粛正することをつかさどる役所であるが、維新に際して復活した古の職制にならい、明治2年に再興されたのである。
しかし官制の再編に伴って明治4年7月に弾正台が廃止されると、諜者のなかでも異宗諜者、すなわちキリスト教を探索する諜者は特別な扱いを受けた。弾正台廃止数か月後に、彼らは太政官(今日の内閣に相当)に直属することになったのである。太政官はキリスト教および在住外国人の周辺を調査するため、開港場に諜者を放った。諜者たちは長崎、横浜、函館、神戸、新潟の各開港地で活動し、その地のキリスト教事情を報告した。彼らはそのほぼ全員が真宗本願寺派と大谷派の僧侶の出身であった(彼らが諜者となった経緯については、前掲拙著『関信三と近代日本の黎明』を参照されたい)。
早稲田大学図書館大隈文書には聖書献上の次第を記した3通の報告書がある。
第1は壬申(明治5年)9月22日差出の報告書で、山手39番のヘボン施療所での日曜礼拝の後、ヘボンが集まった人びとに語った内容を報じたものである。
一八日、安息日にて三十九番ヘボンの礼拝堂に集まり宗書講究す。その後ヘボン云く。
私は近日アメリカに帰るつもり。しかし来年は必ず参ります。私も十三年前よりこの日
本に来たり逗留いたしますは別儀はなく、この日本にエス(イエス)の道を弘めたく、
それについては数々の宗書を反訳するを第一とし、かたわらに人の病を助けて神道に叶
いたく、もはや日本を死ぬる処と定めました。しかるに私当年五十六歳になり、ただ今
のうち一度本国に行かざれば年老いてその儀叶いませぬ。ゆえに今度は暇乞いに本国に
行きます。それに付、私はじめてこの日本をさしてアメリカを出立するとき、ある金持
ちの信者ありて私に一巻のバイブルを与えて云うには、およそこのバイブルは全地球各
国の皇帝にこれを献ぜんためにわざと板を摺りしなり。これまで宗旨ある国には大概こ
れを献上せり。皇帝のほかは何人にもこれを与えざれども、今君志を立てこの教えを弘
るためにわざわざ日本に渡りたもうなれば、これを日本皇帝にささげたまえば我が喜び
何物かこれに過ぎん。願わくはそのときを察し、よろしく取りはかりくれよと慇々頼み
ました。私も喜んでこれを受け日本に持ち来たりまして十三年来、米利堅岡士(米国公使)
転任のたびごとにこれを頼み、なにとぞ献上の道を開きたまえと乞えどもいずれの岡士も
これを諾せざりしに、このたび私帰国につき(公使に)委細を語りましたれば、さもあれ
ば一往日本政府に話してみようと諾しました。この事もし調わば、私日本に来りての大悦
この上もなし。朝夕神に祈り、なにとぞ日本皇帝の心やわらぎ、これを受納したまうよう
加護したまえと願いております。なにとぞあなたたちも我が祈祷を助けて神を祈りて下さ
れと云えり。その座の邪徒一同喜びて云く、実に有難き御咄しなり、これ社神の導きなり、
この一事にてこの宗の開不は明白に分ります。 皇帝もしこれを受けたまわば、たとい今
公然開宗はなくとも、開宗ありたるよりも有難き事なり。つつしみて日本政府の報告を待
つべしと云云(諜者某「横浜切支丹耶蘇教事情書」 壬申9月22日付)
ヘボンは13年前の来日以来、米公使交代のたびに聖書献上を打診したが時期尚早とされ、献上の機会を待っていた。ところがこのたび一時帰国するに際し改めて公使に献上取り次ぎを願い出たところ、引き受けてくれたというのである。
明治5年9月18日(1872年10月20日)の日曜礼拝後にヘボンが会衆に語った、とある。キリスト教制禁の高札が降ろされたのは明治6年2月であるから、禁教下における日本人たちによる礼拝ということになる。このことについて少しだけ説明しておきたい。
これを遡る明治5年2月2日(1872年3月10日)、居留地167番の「石の小礼拝堂」と呼ばれていた小さな礼拝堂で、9人の日本人青年が米国オランダ改革派の宣教師バラ(James H. Ballagh)から洗礼を授けられた。その日、これら9人の青年たちと、それ以前に洗礼を受けていた2人を合わせ、計11人によって、日本初の日本人によるプロテスタント教会である日本基督公会(現日本キリスト教会横浜海岸教会)が設立された。
洗礼を受けた9人のうちのひとりに、真宗大谷派出身の太政官諜者、安藤劉太郎がいた。のちに東京女子師範学校附属幼稚園の初代園長となる関信三である。彼はバラの英語学校の生徒となって宣教師たちに近づき、より高度な内部情報を得るために上司の許可を得て洗礼を受け、わが国初のプロテスタント教会の創立メンバーとなったのである。
この日の洗礼式において2人の日本人先輩信徒が受洗志願者たちに試問した。そのひとりは明治3年、長崎で英国国教会宣教師エンソールから洗礼を受けていたが、彼もまた太政官諜者であった。真宗本願寺派出身の僧侶で、教会での通名は仁村守三、諜者名を豊田道二という。前掲報告書を書いた「諜者某」がこの豊田道二である。さらにその場にはもうひとり太政官諜者がいた。この翌月におこなわれる2回目の洗礼式で受洗する桃江正吉という人物で、関信三と同じ大谷派の長崎光永寺住職正木護隆瑞である。わが国最初のプロテスタント教会が成立した日、その場には3人の太政官諜者がいたのである。ひとりは受洗者として、ひとりは試問者として、ひとりは求道者として、堂々とその場に立っていた(これについての詳細な検証過程は前掲拙著を参照されたい)。ヘボンが聖書献上について日本人信徒たちに語るおよそ半年前のことである。
ヘボンの言葉は日本人たちにとって衝撃そのものであったろう。キリスト教禁教下にあって、天皇への聖書献上などありようはずのないことは日本人の方がよくわかっていた。しかし、一同祈りを合わせて政府からの返事を待っていた。
その驚くべき結果を報じたのが第2報で、およそ1週間後に同じく豊田道二によって報告された。急いで書いたのであろう、いつもの墨書ではなく、ブルーのインクで書かれている。
- 昨二十六日夜ハラン( 宣教師バラ )の咄に云う。ヘボン十三カ年の本望を遂げ今日上海に向け出帆すと云う。本望とは何事ぞと尋ね候ところ、ヘボン日本渡来の初めよりこの国皇帝に
聖教を勧めたてまつらんため大本のバイブルを別段奇麗に仕立て持来るよし。さりながらこ
れまで毎度その義願い出候といへども更に御採用なし。 しかるに、このたび美国ミニストル
(米国公使)より外務省に願い込み、すなわち本月二十二日(西暦10月24日)、右バイブル
とヘボン再稿の英和辞林集成と両部共相納り候につき、 ヘボン積年宿願の実効を得、万喜万
歓し、すでに昨夜更に会を設け神を祷り、今日二時に乗船すと。ハラン満面に笑みを含み相
咄し候云云(9月27日付)
ヘボンは「万喜万歓」、バラは「満面に笑み」、信徒たちの喜び推して知るべしである。キリスト教解禁の日遠からぬことを、しっかりと感じたであろう。筆者が明治5年の献上聖書と誤認した問題の聖書の写真はこの手紙と一緒に保管されていたのである。
聖書の受納はヘボンが一時帰国する直前であった。ヘボンは一時帰国してニューヨークに滞在中、ABSにあてた1873年5月16日付書簡において聖書献納の実現を報告し、その重要性を次のように記している。
- 天皇が、それが何かを理解した上でその書を受け取ったということの重要性は、天皇に対
する国民の深い崇敬の念と、その近づきがたい権威と世俗から隔離された生活、さらには、
ほんの2,3年前まで政府が聖書の宗教に対して恐れや敵意を抱いていたこと、 これらを
知る人々によってのみ、その価値の大きさを評価することができる。聖書の受納は、 政府
内部に起きた大きな変化と、キリスト教の完全な許容、 および良心の自由へと向かう重要
な前進の目に見える証である。(Bible Society Record, vol. XVIII, no.6)
なお豊田道二はこの件について第3報も提出している(諜者某「壬申十月横浜東京耶蘇教事情書」十月六日付)。重複する所が多いので、注意をひかれる1点のみ紹介しておく。すなわち、ヘボン自身がこのときの聖書献納は無理ではないかと感じていたことを示す言葉である。「不思議にこのたびご受納ありて」「私は大方受納はあるまいと思いましたに、思いのほか受納ありて実に喜びます」と述べたというのである。
新聞が報じた聖書献上
聖書の献上は、諜者によって記録されたことが示すように、あくまでも水面下でなされたものであった。しかしまもなく新聞が報じるところとなった。
聖書献上の事実を初めて公にしたのは、横浜発行の英字紙 Japan Weekly Mail の同年11月16日付紙面である。同記事には諜者報告書には記されていなかった注目すべき記述が2点ある。
その第1は、米公使デロングには聖書献納を実現させうる特別なチャンネルと帝の助言者らにデリケートな要求を飲ませる弁舌がある、と記されていることである。みずから願い出たことではあったがヘボン自身がその実現は無理ではないかと思っていたことを考えると、これは大変興味をひかれる記述である。
第2は、聖書を受納した旨を記した天皇の直筆書簡が与えられた、と記されていることである。キリスト教禁教下に天皇に聖書が献上されたという事実のみならず、それに天皇の返書が与えられたというのは驚きである。
前述のように、ABSの記録には聖書を受け取った各国の君主や為政者の多くから受納の手紙が届いたと記され、「彼らに送った手紙と、彼らからの返信は1冊の本にまとめられる予定である」とあるが、残念ながらそうした書は編まれなかった。また、筆者はこの時の天皇の返書を発見すべく努めたが、いまだ見い出せていない。
秘かになされた聖書献上の情報を外部にもらしたのは誰か。これについては推測の域を出ないが、デロングから、とみるのが妥当ではないだろうか。政府側が発表することはあり得ないし、この記事には日本人たちがヘボンから聞いたこと以上の内容が含まれているからである。
一方、邦字紙も唯一、『博物新誌』が報じた。ごく短い記事なので、全文を紹介しておく。
- 米国の医師ヘボンと云うもの、かのキリスト宗門に尊信するところの神典書、その他自ら
著述の和英辞書等を朝廷へ献ぜんことを願い、許可を得て献納す。因てその宗法の日本に
開くべき瑞相なりと、外国人一同喜悦せり。この神典は各国帝王の坐右に置くべき美麗の
品にて、世に珍しき貴重の書なりと。(『博物新誌』明治5年11月第5号)
『博物新誌』は明治5年9月末に創刊されたばかりの新聞雑誌である。『日本初期新聞全集』(ペリカン社)に採録された同誌紙面を概観すると、基本的に毎月5回の発行であるが、発刊月と号数の表記が正確とは言い難く、前掲記事が掲載された正確な発刊日を特定することは難しかった。ただ、明治5年11月は大まかにいえば西暦の12月であるから、少なくとも同記事は11月16日の英字紙の記事を受けて報じられたと考えてよいであろう。
しかし、「この神典は各国帝王の坐右に置くべき美麗の品にて、世に珍しき貴重の書なりと」という表現からは、諜者が報じたような切迫感や驚愕は感じられない。あえてこうした表現にしたのであろうか。
この件については、どの邦字紙も後追いしていないようである。