第1部  明治5年の献上聖書

  第2章 聖書献上と森有礼とデロング


明治5年の聖書献上と森有礼の関係は決して直接的なものではないが、従来取り上げられたことはなかったテーマなので、この際にまとめておきたい。

「はじめに」でふれたように、森有礼は明治新政府が初めて送った駐米外交官であった。森はワシントン在任中、当時岩倉使節団に同行して帰国中であった駐日米公使チャールズ・デロングと激しく対立した。このデロングが、帰任後、聖書献上を日本政府に取り次ぐことになる。

森とデロングの激しい対立は、開拓使が派遣した津田梅子ら5人の女子留学生の保護監督権をめぐって引き起こされた。デロングは明治4年末に岩倉使節団の派遣が決まると、急遽休暇を取り、家族とともに使節団に同行して帰国することを決めた。女子留学生は使節団に帯同されて渡米することになったが、使節団には女性の随員がいなかったため、開拓次官黒田清隆は出航に際してデロングの妻に彼女たちを託した。このことが騒動の原因となる。

大陸横断の途上、雪のため足止めを余儀なくされた使節団一行がワシントンに到着したのは、予定を大幅に遅れた明治5年1月21日(1872年2月29日)のことであった。黒田から少女たちの受け入れに関して諸事万端任されていた森は、使節団一行をワシントン駅頭に迎えるとすぐにデロングの車両に少女たちを引き取りに向かった。しかしデロング夫妻は彼女たちを引き渡すことに強い難色を示した。この日から始まった森とデロングの対立は、両者一歩も引かず、岩倉・木戸を巻き込んで日に日に拡大していった。岩倉・木戸はデロングの側に立ち、森を一方的に非難した。森はこれを遺憾とし、本国政府に辞表を提出した。

なお、従来知られていなかったこの事件については、拙著『森有礼が切り拓いた日米外交―初代駐米外交官の挑戦の「第二部 岩倉使節団と開拓使派遣女子留学生をめぐる諸問題」に詳述した。また女子留学生の保護監督権をめぐって激しく対立した森とデロングの関係書簡の原文は翻刻し、すべて『新修森有礼全集 別巻4』に収録された。あわせて参照されたい。


デロングと森の最後の往復書簡

自分たちに少女らを引き渡せ、岩倉閣下もそれを望んでいる、と迫るデロングに対し、森は一歩も引かなかった。岩倉大使は日本国天皇からこの件について権限を与えられていない、自分は少女たちを派遣した開拓次官の命を受けて在外使臣として職務を遂行しているだけである、と論拠を定め、森は剛腕の駐日米公使とわたりあった。

岩倉の権限を否定された後も、デロングは主張を続けた。

  • 貴殿によれば、貴殿は一官吏としての職務以上の権限をもっていないが、費用を管理して
    いる以上、使途について事前に知っておかねばならないという。少女たちは今いる場所を
    離れたくないと言っているともいう。しかし、具体的なことは貴殿が少女らに付き添って
    われわれとともに現地に行き、学長と話し合えばわかることではないか。少女たちの希望
    というが、それが彼らの両親や次官の命に背くものであるかぎり考慮する必要はない。
    そもそも彼女らはまだヴァッサーカレッジのことを何も知らないではないか。デロング夫
    人がこれまで貴殿の国民のために大変繊細な義務と責任を果たしてきたことは、貴殿も認
    めるところであると確信する。はっきりさせよう。
    貴殿は日本の外交の代表者である。
    これらの少女は貴殿の国の問題である。
    貴殿は彼女たちをわれわれの抗議にもかかわらず、われわれから取り上げた。
    貴殿は彼女たちをわれわれに通告することなく、あるいはわれわれの同意を得ることなく、
    学校や社交の場に出した。
    この適否を判断するのは私ではなく、貴殿が良心に従って職務を遂行していることを疑う
    ものでもないが、彼女たちがこの国に送られてきた指示に違反していることは疑い得ない。
    貴殿のよく知られている性格からして、私は貴殿が貴殿に本来課せられている責任を躊躇
    なく果たすものと信ずる。もし貴殿からの返信が私の提案に同意するものでないならば、
    私は貴殿の政府にこれを通告する。ニューヨークのホテル宛返信されたい。(4月23日付)
 

デロングに対しこれまで比較的穏健に対処してきた森であったが、ここに至って以下のように激しく応酬した。

  • 少女たちは私と共にヴァッサーに行くべきであるというあなたの提案については、私も喜んでそうしたいと考えているが、時期については当方にも都合というものがある。また彼女たちの意思に反して私と一緒に行けと命じることは、私の力の及ばぬことであり、当然のこととも思わない。あなたは少女たちがヴァッサーに行くのを拒否していると考えているようだが、そうではない。彼女たちは、今ワシントンを離れることを拒否しているだけである。私は他に差し迫った必要がない限り、彼女たちが望むすべてにおいて彼女たちを援助することが、私の義務であると考えている。
  • 私が少女たちをあなたの抗議に反してあなたから取り上げたと述べていることについては、私にはその意味するところが理解できない。その件についてもっとよく説明していただきたい。
    あなたが主張するもうひとつの申し立て、それに対して私が完全に否定しなければならない申し立て、すなわち私が少女たちを学校や社交の場に出したという主張についてであるが、あなたの断言どおり、私はあなたに通告せず、あなたの同意を求めずにそれをおこなった。これについて私が申し上げるべきことはただひとつ、私があなたのその申し立てを奇妙なことと思い、私に対する非礼な行為として受け取ったということである。
    少女たちがこの国に送られてきた指示は、あなたが主張するようには違反されていない。それどころか、指示が文字どおり遂行されていることを、私の義務であり喜びとするものである。
    (4月25日付) 


この手紙に怒り、また埒が明かないとみたデロングは、少女たちをヴァッサーカレッジに入学させる準備のためニューヨークに向かうと岩倉・木戸に告げ、ワシントンを引き上げた。

米国務省の記録に、ニューヨークのグランドセントラルホテルに滞在中のデロングに、国務次官補Haleから次の手紙が送られたことが記されている。

  • 国務長官の依頼により、貴殿の個人的考慮に付すため、本月23日付の日本少弁務使森有礼氏の手紙の写しを同封する。(1872年4月26日付 National Archives, Records of the Department  of State, Diplomatic Instructions, Japan. Vol.1, P.157)

本月23日付の森有礼の手紙とは、同日付デロング書簡を受け取った森が、すぐさまその写しを添えて国務長官フィッシュ(Hamilton Fish  1808-1893)に書いた手紙であったと思われる。おそらくそこには、デロングの「干渉」に対する「遺憾」が表明されていたであろう。フィッシュはすぐに森の手紙の写しを「貴殿の個人的考慮に付すため」として、国務次官補を通してニューヨークのデロングに送ったのである。フィッシュはデロングに不快を表明し、その行動に釘を刺した。しかし、デロングは意に介さなかった。

デロングは28日付で開拓次官黒田清隆に手紙を書いて森がいかに不遜であるかを訴え、翌月にはみずからヴァッサーカレッジを訪問して学長と面談した。さらには、入学可能な時期になるまでの少女たちの預け先としてヴァッサー近くの寄宿学校を視察し、その結果を森と黒田に報告して少女たちを自分に任せるよう迫った。一方森はワシントン市内に一軒の家を借り、個人宅に分宿していた少女たちをそこに集めて自分の直接の庇護下に置き、この問題にみずから終止符を打った。


デロング帰任後

デロングは長引いた休暇を国務長官に叱責されて、同年(1872年)8月10日に帰任した。

1869年の着任以降、デロングは日本政府のさまざまな案件に介入してきたが、帰任してからの彼は一層強く外務省に働きかけるようになる。まず動いたのはマリア・ルス号をめぐっての介入であった。これはやがて泥沼化し、わが国が初めて国際裁判の当事者となる重大な事件へと発展する。

デロング帰任前の7月9日、ペルー船籍マリア・ルス号が悪天候のために故障し、横浜に緊急入港した。同船はいわゆる奴隷貿易船で、多数の清国人クーリーが詰め込まれていた。停泊中、数人のクーリーが過酷な扱いを逃れて海に飛び込み、近くにいた英国軍艦に救助された。英国代理公使は同船に詰め込まれていた200人を超える清国人クーリーの保護を日本政府に求めた。わが国とペルーには二国間条約は結ばれていなかったが、外務卿副島種臣は人道的立場から彼らの救助を決定した。すると船長は米国に助けを求めた。だがデロング留守中の代理米公使であったシェパードは、合衆国規則はクーリー貿易を認めておらず、いかなる援助も与えることはできないと答えた。この件について報告を受けた国務長官フィッシュは、シェパードの処置に同意の旨を通知した。デロングが帰任したのはこうしたさなかであった。

デロングは帰任早々、これまでの経過を無視して船長を呼び出し、自分が仲介すると言い出した。デロングは拙者がこの件を取り扱うべきであると本国から指示を受けていると述べ、終始ペルーの代表者としてふるまった。しかし米国務省にはデロングの話とは趣の異なる記録がある。9月3日付電信であたかもペルー政府を代表するかのように介入を報告してきたデロングに対し、フィッシュは「あなたの行為は奴隷貿易船に合衆国の援助と支持を与えることが妥当であると言っているに等しい。日本政府は、合衆国政府がそうした違法行為に加担しているのではないかと疑っている。これは米国政府および米国人民にとってきわめて遺憾な事態である」[注2]と述べて、デロングを強く叱責しているのである。


  • [注2] 1872年12月5日付 National Archives, Records of the Department of State, Diplomatic 
    Instructions, Japan.
    Vol.2, No.151



 デロングのマリア・ルス号への介入は以後も続くが、帰任からおよそ2か月後におこなわれたデロング・副島会談の記録に、本論に関係する小さな記述がある。(発言者名は筆者記入)

  • 壬申九月十日(10月12日)外務省に於いて外務省副島外務卿米国公使デロングへ応接記
    デロング:上野氏三等出仕の義承知いたし返簡差し出し置き候えども昨日は金川県(神奈
            川県か)
    も休日に付、届越し申すまじくと存じ候。上野氏は大輔とか少輔とか
         の事致され候義にか。 
    副  島:今に貴国へ参る事に相成るべく、それまでのところ当省にて扱振慣習いたし候
         事に候。
    デロング:森氏被還上野氏被参候間は如何に候や。
    副  島:森はこれまで信用致され候えども当人より度々御免願い申し越し候に付、止む
         を得ず免じ候事ゆえ、一応当人の心得承り候上にいたすべきと存じ候。尤も上
         野参り候上にて森帰朝いたし候積りに候

    (「明治五年対話書 二 米国之部二/2 壬申〔明治5年〕9月10日 「外務卿等ノ各国公使トノ対
     話書第11巻」)

大変興味深い記録である。ここで論じられているのは、というより、デロングが副島に問うているのは、森有礼の辞任あるいは召喚に関することである。デロングは言外に、森の代わりに早く上野(上野景範)を公使にせよと迫っているのである。

森は女子留学生の保護監督権をめぐってデロングと対立した際、岩倉・木戸らが完全にデロング側に立ったことに対して辞表を書いた。辞表は条約改正交渉が暗礁に乗り上げたことに関連して一時帰国することになった大久保利通に託して本国に提出された。明治5年2月付である。森の辞表を受け取り、かつ大久保からワシントンでの「事件」について詳細な説明を受けた本国政府は、辞表を提出する必要はないと判断した。それのみならず、政府は森をそれまでの少弁務使から中弁務使へ昇進させ、その旨を正式に米国政府に達した。しかし森は頑として辞表を撤回せず、あくまでも少弁務使を名乗り続けていた。こうした状況が続いていたところでのデロングの「問い合わせ」である。これに対して副島は、「森はこれまで信用致され候えども当人より度々御免願い申し越し候に付、止むを得ず免じ候事ゆえ、一応当人の心得承り候上にいたすべきと存じ候」と応じた。政府としては明治5年の時点で、すなわち、岩倉使節団が帰国する前までは、森を辞任させる意向はなかったのである。一方でデロングは、森の辞任を待ち望んでいたことがわかる。

デロングが副島に聖書献上を打診したのはこの直後のことであった。


聖書献上

米公文書館所蔵の在日米公使館記録中に、外務卿副島種臣からデロングに宛てた明治5年9月23日付の手紙が保存されている。

  • 千八百七十二年第十月二十二日付貴簡落手致候。貴国ドクトル、ジ、ヘプボルン氏より我皇帝陛下へ経典一冊ならびに和英字書一冊捧呈致されたきに付、右書籍ならびに同氏よりの書簡御添え御来示の趣、奏聞とげ候處、右は御受納相成候間、其段同氏へ御通達有之度候、右回答如此候。敬具
      明治五年壬申九月二十三日 外務卿副島種臣
       米利堅合衆国特派全権公使 チャルシスイデロンク閣下

    National Archives, Records of the United States Legation in Japan, 1855-1912. Reel No.26)

この手紙は、先に申し入れたヘボンから依頼された聖書と辞書献納の件はどうなったか、と問い合わせてきた10月22日(9月20日)デロング書簡への、副島からの「回答」である。副島は「経典一冊ならびに和英字書一冊」は受納された、しかるべくヘボン氏に知らせるように、と回答した。この文書ではデロングが献納を申し入れた日付はわからないが、しかしそれらはすでに受納された、というのである。

これは在日米公使館側が保存していた記録である。日本側の記録と合わせて、以下聖書献納に関する一連の流れを整理してみたい。なお、細かい動きの推移がわかりにくいので、この間については旧暦に統一して記すことにする。

まずデロングが副島に聖書献上を申し入れた日についてである。外交史料館資料によると、デロングが、森の辞任はまだかと尋ねた9月10日から聖書献納が実現したことが確実な23日のあいだに外務省に副島を訪ねたのは、9月13日である。この日の記録には聖書献納やヘボンについての言及はない。だが、おそらくこの日だったのではないか。この場でなされたのは、打診した、などという簡単な話ではなかった。「我皇帝陛下へ経典一冊ならびに和英字書一冊捧呈致されたきに付、右書籍ならびに同氏よりの書簡御添え御来示」とあるから、デロングは聖書とヘボンの辞書を携えて副島と面談し、その場で両書を副島に手渡したのである。対して副島は即答しなかった。そこでデロングは22日に確認の手紙を送り、それに対して副島は23日付書簡で受納済みであると回答したのである。

デロングが副島に確認の手紙を書いた9月22日は天長節であった。デロングも式典に参列した。式典には各国公使が招かれたが、『明治天皇紀』(『明治天皇紀第2』明治2年正月-明治5年12月)に個人名があげられているのはデロングのみである。デロングが「祝辞を外務卿副島種臣に致して奏聞を請ふ」たこと、およびその長文の祝辞要旨も記録されている。その日、デロングは副島に、ところで頼んでおいた聖書献納の件はどうなっているか、と問い合わせてきたわけである。翌23日、副島はデロングに、受納された、ヘボンにも知らせよ、と「回答」した。

天長節の翌日、副島からの書簡を受け取るや、デロングはその日のうちに外務省に赴き、副島に面会を求めた。それが以下の記録である。

 
  • 壬申九月二十三日外務省於て副島外務卿米国公使デロングと応接之大意
    一  米国人ドクトルヘボンより書籍献納之事
    副  島:過日書簡を以て来意之貴国ヘホンより進献之書籍類御受納相成間其旨御承知可
         被成候
    デロング:天皇陛下より拙者迄御書簡を以御申越被下度共御受納と申而己(のみ)ニテ宜候
    副  島:受納之段は閣下迄御書簡を以可申入候
    デロング:右書籍は是迄同氏より貴国政府江進呈致度旨頼候先任公使江申立候得共其義不
         能、然ル處先般御受納相成同氏は宿意を遂げ私於而も満足に存候
     [注3]


  • [注3] これは9月23日付記録であるが、外交史料館資料では9月13日の部の後半に入っている。
    従って、同文書を確認される場合は「明治五年対話書 二 米国之部二/3 〔明治5年〕9月13日」
    のファイルのNo.0139以降を参照されたい。
 

デロングは副島から回答を受けとるとただちに外務省に行き、天皇の直筆書簡を要求したのである。「拙者まで御書簡」を、「御受納と申すのみにてよろしい」。「受納した」の文言だけでいいから自分宛に天皇の返書が欲しい、というのである。副島はその場で了承した。後日直筆書簡が与えられたことは確実で、前述1872年11月16日付Japan Weekly Mail の記事にも、天皇から受納の返書が与えられたと記されている。この情報を流したのはデロング以外に考えにくい。禁教下に聖書が献上されたという事実のみならず、それに対して天皇の自筆返書が与えられたことも驚きであるが、催促して書かせたというのも異例であろう。デロングはこの成果に「私においても満足に存候」とみずから口にするほどの満足を示した。

だが、聖書献上の取り次ぎは本国が認めていたことではなかった。この件について事後報告を受けたフィッシュは、12月28日付でデロングに次のように書き送った。

 

  • 11月10日付電信落手。そのなかで貴殿はヘボン師から日本の帝に贈るための聖書を受
    け取り、それを帝に献じたと報告している。貴殿に知らせるべきであろうが、当省はこれ
    まで、合衆国を代表する在外外交官たちに私的個人に代わり派遣先の君主に贈り物をする
    権限を与えないことを慣例としてきた。その慣例は贈答の性質の何たるかに関係なく、た
    だ私的個人の贈り物に公的許可を与えることは望ましくないとの考えのもと採用されてき
    たのである。貴殿がこの件について当省の指示を仰がなかったことは残念である。贈答の
    権限を与えることは当省の方針と一致しない
    [注4]


  • [注4] 重要な文書なので、参考のため原文をあげておく。
    Department of State
    Washington, 28th Desc 1872
    C. E. DeLong Esq.

  • Sir:
          I have to acknowledge the receipt of your despatch No.304, under date of the 10th November, 
    in which you report your proceedings in presenting to the Emperor of Japan a copy of the Bible 
    which you received from the Reverent Dr. J. C. Hepburn for that purpose.
           It is proper to inform you that it has long been the practice of this Department to decline to 
    authorize the diplomatic representations of the United States in Foreign countries to 
    make presents in behalf of private individuals to the Sovereigns to whom such representations 
    are accredited. The practice has no reference to the intrinsic character of the presents proposed 
    to be made, but has been adopted because it is believed not to be advisable to give an official 
    sanction to the proceedings of private individuals in such cases. It is to be regretted that you did 
    not apply to the Department for instructions in this case; the authority to make the present would 
    not have been accorded.
      I am, Sir,
                            Your obedient servant,
                                        Hamilton Fish
    (1872年12月28日付 National Archives, Records of the Department of State, Diplomatic 
    Instructions, Japan. Vol.2. No.160)


政府の了承なしになされたこの行為に対して、国務長官フィッシュはデロングを叱責した。マリア・ルス号事件への対応に続いての叱責である。フィッシュのデロングに対する不快感は極度に高まっていた。この聖書献上を契機にデロング召喚の話が具体化し、米国政府から日本側に公使交代が通告されるに至るのである。


デロングの辞任と森有礼

このころ、米国側のデロング評は官民ともにきわめて低かった。国務省からはデロングの行動を非難し、その抑制と改善を求める"instruction"が次々に届いていた。そうしたなか、驚くべきことに、と言ってよいであろうが、日本政府は、デロングを辞めさせないようフィッシュに働きかけよと森に命じたのである。外務卿副島種臣の名で出された明治6年3月8日付森宛書面には、「この良吏は永久その職を奉ぜしめたく、我皇帝陛下切々希望いたされ候」[注5]とある。


  • [注5] 明治6年3月8日付「米公使デロンク氏儀ニ付在米森代理公使ヘ書通ノ申立」『公文録 外務省の部』明治六年三月。なお『太政類典第2編』では、表題が「米国公使テロンク辞職ヲ止メン事ヲ森代理公使ニ伝フ」となっている。
    「 別紙之通米国在留森代理公使へ申遣度此段得御意候以上
    六年三月七日 外務卿副島種臣
    三条太政大臣殿
    (朱筆)申立之通 印
    明治六年三月八日
    其日附ノ貴翰致接手候ドクトル平文氏ヨリ我皇帝陛下ヘ経典献上致候儀ニ付デロング氏ノ所業不都合トノ旨華盛頓府ニ於テ評議ニ相成候由承知致候。将亦フヒシ氏ノ内意ニテ次便カリホルニヤ郵船ニテ辞表被差出候由セネラル、リチャンドル氏被候聞込候儀承リ及候然ルニ右ノ事実我皇帝陛下ノ御聴ニ入候處現今我国外交日々盛ンナル時米公使ノ如ク多年我国ニ覊住シ従来ノ事状ヲ熟知スル人ナカルヘカラス此人我国ニ滞在セハ両国交際ヲ益固牢ナラシメ利益モ又随テ起ルベシト思召今余ヲシテ足下ニ報知ナサシムルノ趣ハ米國政府ニ於テ右一件再考有之デロング氏ノ辞表御採用無之様致度此ノ良使ハ永久其職ヲ奉セシメ度我皇帝陛下切々(『太政類典』では「切ニ」)希望被致候依テ此書ノ趣旨米国外務執権ヘ御通有之テ若シ外務執権此書簡ヲ被望候ハヽ抄文差遣シ可有之候敬具
    第三月七日 副島外務卿森代理公使殿」
 

相手国が駐在外交官として送ってきた人物を、良い人であるから生涯その地位にとどめてほしいと相手国に訴えよ、などという指令は、今日からみれば噴飯ものであろう。しかしそれ以上に、日本政府はなぜそこまでデロングにこだわったのか、という別の問題もある。筆者にはそこに分け入る力はないが、外務省は森にそう命じた[注6] 。その指令を、森は国益にかなわぬと判断して動かなかった。そしてこのことが森有礼糾弾の大きな理由のひとつになったのである。


  • [注6] この問題を複雑にしているのは、日本政府が必ずしもデロングを信頼していたわけではないことを示す資料があるからである。そのひとつがデロングによる特命全権公使昇格時期についての詐称である。彼は昇格辞令が届いていない(まだ書かれてもいなかった)のに、本国から特命全権公使の辞令を受けたと外務省に報告した。外務省はそれを疑い、「吹聴」という表現を用いて警戒した。また、先に述べたように、デロングがワシントンにおいて女子留学生の保護監督権を主張して森と対立し騒動を引き起こした状況についても、一時帰国した大久保利通から詳細な事情説明を受けていた。報告を聞いた政府は全面的に森を支持したばかりか、ただちに森を昇進させた旨を合衆国に通達した。デロングに対する政府の警戒感はきわめて強かったのである。これらについては拙著『森有礼が切り拓いた日米外交』に詳述した。
 

デロング解任を阻止するよう森に命じた副島外務卿書簡の英訳を、なんと英字紙がまるごと掲載していた。ここで紹介するのは明治6年6月2日付で掲載された'Our Minister to Japan - The American Diplomatic Mission and Present Position of Minister De Long' と題する記事であるSan Francisco Chronicle, 2 June 1873)。同記事は同年5月24日付のNew York Herald からの転載で、もともとは横浜から4月22日に発信された記事であった。記事は、先の船でデロングが解任あるいはみずから辞職するよう通告されたという情報が本国から届いた、と記したのち、'WHAT THE JAPS SAY.' と小見出しを立てて次のように記している。「日本人のあいだでは、デロング氏解任の理由は、ヘボン博士が陛下に聖書を献じることを許すよう帝に説いたからだと噂されている。デロング氏はヘボン氏のために許可を求め、求めは問題なく許可された。しかし、ワシントンの国務省はデロング公使のこのむしろ純粋な行為(this rather innocent action)に難色を示した。フィッシュ氏はこうした行為は帝への作法にかなわないと考えている。しかしフィッシュ氏の驚きがどれほど正しかったかは、副島外務卿からワシントンの森氏に送られた次の手紙が伝えてくれるのではないか。合衆国政府にも同じ内容の書簡が送られた」として、日本人がいかにデロングを高く評価し、このまま公使としてとどまってほしいと願っているかを示す格好の例として、デロング解任阻止を森に命じた副島書簡全文の英訳を掲載しているのである。副島書簡の後には在日米国商人たちによる、デロング氏はわれわれにとって有益であり有能であり愛国者であるという証言が続く。記事は終始デロング擁護の立場で書かれている。どこから副島書簡が外部に漏れたのか。デロングから、とみるのが妥当であろう。これまでの状況から推察すれば、この副島書簡そのものがデロングの願いによって書かれた可能性すら排除できない。

しかしデロング解任の動きは変わらなかった。新任公使が着任するまでに時間がかかったものの、10月18日、第5代公使ジョン・ビンガムが信任状を提出した。この日、合衆国大統領名による6月16日付デロング解任届もあわせてビンガムにより提出された(「旧米公使デロング解任ニ付大統領親書訳文上進」『公文録・明治六年・第百一巻・明治六年十月・外務省伺録(二)』)


新たな公使が着任し、すべてをまとめて帰国する直前、デロングは宣教師ジョナサン・ゴーブルに宛て、問いに答える形で長文の手紙を書いている。1873年11月10日付の手紙で、上田文庫発行『摩太(マタイ)福音書 附帯記録』(昭和13年10月)に書簡とその翻訳文が掲載されている。

ジョナサン・ゴーブルはペリー艦隊の乗組員として初来日し、帰国後日本伝道を志して神学校に学んだ異色の人物で、万延元(1860)年に米国バプテスト派の宣教師として再来日した。明治4年11月に翻訳書『摩太福音書』を出版、その直後に出航した岩倉使節団と同船で一時帰国した。その旅でデロングと親しくなる。日本に戻ったのは明治6年2月であった。ゴーブルは帰国直前のデロングに手紙を書き、デロングはその日のうちに返信した。手紙の最後にこの件についてのデロングの所感が記されているが、そのなかに以下の記述がある。

  • 陛下に聖書を献じた私の行為を国務長官フィッシュ氏が不承認とした結果についての質問
    についてはお答えしかねる。国務長官は自身が宗教学教授であり、私はそうではない。氏
    は国務長官としての当然の義務を遂行し、私はおそらく、氏が言うように米国政府の行動
    規範のなにかを逸脱したのであろう。ただ、もし氏に過誤があるとすれば、ワシントン駐
    在日本公使にこれを伝達し、その結果、当地の当局者たちがこれを知るところとなったこ
    とである。


本論の関心にとって注目すべきは、デロングが「もし氏に過誤があるとすれば、ワシントン駐在日本公使にこれを伝達し」と述べている箇所である。つまり、フィッシュは森に、デロングが天皇への聖書献上を仲介した事実を伝えたのである。本国からデロング解任阻止の指令が届く前の事である。


 フィッシュがデロングの行為をとがめたのは、微妙な時期に相手国の機微にふれるものを贈ったからではない。「贈答の性質の何たるかに関係なく」、それを仲介した行為が外交代表者として適切ではないと指摘したのである。フィッシュはこれ以前にも一貫してデロングの外交官としての在り方に注意を与え続けていた。米国を代表して派遣された外交官は、一商人の取引に関連して相手国政府に口をきいたり圧力を加えたりしてはならない。米国政府がそれをしているという誤ったメッセージを与えるからである。聖書献納の仲介にフィッシュが異を唱えたのも、この一貫した姿勢の上にある。あなたは一体誰を代表しているのか、米国政府か、あなたの権威を頼ってきた個人か、それともあなた自身か、という問いである。


フィッシュがこの件を憂慮し、いち早く森に伝えたのは、外交官の在り方について森と共通認識を持っていたからであろう。デロングが女子留学生たちの将来までを支配しようとし、自分たち夫婦の権利を主張し、岩倉らを巻き込んでの騒ぎを起こしたのは聖書献納のおよそ半年前のことであった。そのとき森は自国を代表する外交官として、自国の利益を守るために、すなわち日本人女子留学生を保護し、彼女たちが今後受けるべき教育に備えるために、岩倉らから謗られながらも、デロングと徹底的に闘った。フィッシュはそのありさまをつぶさに見ていた。そしてデロングについて深く憂慮したであろう。この男は一体何のために悪あがきをしているのか、彼は自国の公正な利益と名誉のために働くべき外交官の役割が理解できていない、と。

筆者はこのゴーブル宛デロング書簡により、フィッシュが森にデロングによる聖書献納仲介の話を伝えていたことを知り深く納得した。フィッシュが森にそれを伝えたのは、ふたりの関係においてごく自然な行為であった。森は話を聞き、フィッシュの判断の基準に同意したはずである。森は天皇に聖書が献じられたことを遺憾としたのではない。森がキリスト教に親和性をもっていたことはよく知られている。彼は天皇の手に聖書がわたること自体を否定していたわけではないであろう。彼は、国家を代表する外交官が、国家の権威を後ろ盾にして聖書献上を仲介したことを遺憾としたのである。米国を代表するあなたがそれをしてよいのか、と。

母国での長い休暇から戻ったデロングは、森の解任はまだかと副島に問い合わせた。ゴーブル宛書簡でも、フィッシュが森に話さなければこんなことにならなかったのに、という思いを滲ませた。デロングには、ワシントンで対峙したあの時から職を解かれて離日する最後の時に至るまで、森有礼が頭にあったのであろう。森は身分の違い(森は外交官としての最下級の官位であった)にかかわらず、一国を代表する外交官として、駐日米公使デロングに「対等」に物を言った人間であった。自分の解任は森の存在があったからである。デロングはそう考えたであろうし、おそらくそうであったろう。ワシントンにおける森の存在が、フィッシュに、米国の代表者としてのデロングの資質について考えさせずにおかなかったであろうことは否定できない。

聖書献上を仲介したデロングの行為はフィッシュに最後の決断を下させた。数か月後、日本からデロング解任を阻止するようフィッシュに働きかけよと森に指令が届き、フィッシュにもデロング続投を願い出る書状が届いたが、フィッシュの考えは変わらなかった。森もフィッシュも微動だにしなかったのである。



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