第2部 大隈文書中の聖書の写真
第1章 大隈文書中の聖書の写真
大隈文書中の聖書の写真とその撮影者
では改めて、筆者が明治5年の献上聖書と誤認した大隈文書中の聖書の写真について考えてみたい。
写真は聖書の表紙両面を撮った2カットを1枚に仕立てたもので、わずかに虫食いの跡がみられる。
写真は台紙に貼られていた。台紙の大きさは、およそ縦11cm、横16cm。台紙の右端にイタリック体で「K. Kimbei No.7 Honcho YOKOHAMA, JAPAN」と型押しの文字が浮き出ている。
聖書の表紙は布製で、絹糸で文字や紋様が刺繍されている。背表紙から見て左側の一面には中央に菊の紋章と一対の鳳凰が、右側の一面には踊り桐と呼ばれる家紋をアレンジしたらしい文様が刺繍され、背表紙には上部に「HOLY BIBLE」、下部に「引照 舊新約全書」という文字が刻まれている。みごとな装幀の聖書である。
台紙に型押し文字で記されているK. Kimbei は、幕末から横浜で活躍した写真師のひとり、日下部金兵衛である。中村啓信『明治時代カラー写真の巨人 日下部金兵衛』(国書刊行会 平成18)によれば、金兵衛は天保12年(1841)、山梨県甲府市工町に生まれる。文久3年、横浜にてベアトの助手となり、慶応3年にはベアトの上海行きに同行している。明治14年に独立し、横浜弁天通りに金幣写真館を開業。事業は成功し、明治23年6月にメインストリート中心部の本町1丁目7に移転した。台紙に型押しされている住所である。
筆者は長い間この写真を明治5年の献上聖書の写真であると思っていたため、これは彼が同所に本格的な写真館を構える前になした仕事ではないかとその可能性を調べていたのであるが、しかし明治5年に撮影された写真ではないと判明したからには、同写真は写真館を構えてからのものであったとするのが妥当であろう。 ということは、聖書の写真は金兵衛が本町1丁目7に写真館を開いた明治23年以降に撮影されたということになる。
なお、金兵衛はこれを遡る明治17年6月14日、関信三がその創立メンバーのひとりとなった横浜海岸教会で洗礼を受けている。
この写真の聖書は何なのか
明治5年の献上聖書はABS製作のImperial Quarto版聖書を特別装幀したものであった。では、この写真の聖書の本体は何なのか。
まず漢訳か和訳か、という問題である。明治5年には和訳聖書は完成にはほど遠かった一方、漢訳聖書はすでに完成し、幕末のわが国にも入っていた。しかし、聖書が撮影されたのが明治5年ではなく、金兵衛が本町1丁目7に写真館を開業した明治23年以降であると考えると、和訳であった可能性が高くなる。
ここで少し横道に入るが、ある漢訳聖書について述べておきたい。
先年、1855年に香港で出版された漢訳聖書が京都の寺院で発見されたことが報じられた(『京都新聞』2017年9月6日夕刊)。それは中国で布教していたプロテスタント各派の代表者たちが協力して完成させた聖書で、香港では1854年に新約、55年に旧約の出版が始まった。今回見つかった聖書の旧約部分はその初版である。初版本は世界でもわずかしか現存せず、貴重な1冊であるという。このニュースに筆者は大変驚かされた。
聖書が所蔵されていたのは、京都市下京区の真宗大谷派円光寺であった。同寺の12代住職樋口龍温(香山院龍温)が慶応元年(1865)に江戸で入手した聖書であるという。聖書を収めた箱の表に「耶蘇舊新約書全部六十六巻」と記されている。箱の底には龍温の手による由緒書きがあった。それによれば、龍温は文久2年(1862)に初めて漢訳聖書を入手した。しかし、2年後の蛤御門の変の兵火により焼失し、慶応元年、江戸において再度買い求めた。それが今回発見された聖書であるという。
筆者がこの聖書発見の報に驚嘆したのは、それが歴史的に貴重な聖書だったからではない。それが樋口龍温の聖書だったからである。龍温は筆者が研究していた関信三の若き日の師であり、関信三の生涯を決定づけた人物であった。
幕末、浄土真宗、特に幕府の強い恩顧を受けていた大谷派は、時代の逆風に翻弄されていた。そうした状況のなか龍温が取り組んでいたのが、長く禁忌とされてきた邪教(キリスト教)の研究であった。文久2年、本山は龍温を耶蘇教防御掛に任命した。龍温はただちに関東に下り、横浜の外国人居留地を探索した。龍温が由緒書きに述べる文久2年に購入した聖書とは、この時入手した聖書である。
帰京した龍温は門下の青年僧らに耶蘇教の危険性と防御の必要を強く説き、僧侶たちを覚醒させるべく、相次いで檄をとばした。耶蘇教はわが国敵であり邪宗である、これを排斥することが王法の恩に奉ずる道である、と惰眠をむさぼる僧侶たちを激しく叱責した。そしてまだ住職にならず、妻子を持たない僧にむかっては、その境遇を「学問の為の幸なりと心得て、寸分の光陰も空しくせず、学日々に進むべし」と勉励した(香山院龍温「急策文」文久3)。
文久2年の龍温の関東下向に、関信三の長兄、安休寺晃耀(こうよう)が随行していた。
関信三は三河国幡豆郡一色村の真宗大谷派安休寺に末子として生まれた。僧名を猶龍(ゆうりゅう)という。彼は青年僧時代に兄らとともに香山院龍温社中となり、龍温の薫陶を受けて、本山僧侶たちの白眼視にもひるまず邪教研究に励んでいた。横浜探索から帰った兄は、そのありさまをにつぶさに語った。兄の口を通して語られた天主堂の見事さ、わがもの顔の異人たち、居留地のにぎわいは、彼に衝撃を与えずにはおかなかった。その衝撃がどれほど大きかったかは、猶龍がのちに太政官諜者となって当局に提出した自己紹介文書に、文久2年に横浜報告を聞いたことが自分の転機となったと記していることからもわかる。龍温が横浜で入手した貴重な聖書を、兄晃耀も猶龍も読んでいた。
その聖書が蛤御門の変の兵火で失われ、慶応元年、江戸で再度買い求めたのが今回発見された聖書である。この聖書も、猶龍ら龍温門下の少数精鋭の青年僧たちは手にしていたはずである。
慶応4年、いよいよ追い詰められた本山は、仏教の有用であることを示すため、長崎に僧侶を派遣してキリスト教事情を探索させることを決めた。そのとき長崎に送るべく龍温が選んだのが猶龍であった。猶龍はそれ以降、キリスト教探索に挺身することになる。幕府が崩壊すると、猶龍は本山から新政権に差し出され、諜者として政権深くに組み込まれていく。円光寺に眠っていた聖書は、衆人の目に触れることなく、秘匿され、忌避され、しかし猶龍の人生に深くかかわった聖書であった。関信三研究にたずさわった者として、感慨深く思わずにはいられなかった。
大隈文書の写真の聖書に戻る。聖書和訳の歴史からみて、これは和訳聖書であろう。
聖書は各巻が翻訳されるごとに分冊で出版された。新約部分の和訳(翻訳委員社中訳)がすべて完成したのは1879年(明治12)末であった。翌年、新約全巻を1冊にまとめた『新約全書』が北英国聖書会社(スコットランド聖書協会)と米国聖書会社(米国聖書協会)から出版された。このうち米国聖書会社から出版された聖書には引照が付いていた。扉の上部に「Reference Testament」、その下に「引照 新約全書」と記されている(明治学院大学デジタルアーカイブス)。これが「引照」付聖書が出版された最初である。この時点ではまだ旧約全巻の和訳は完成していない。
旧約の和訳が完成したのは1887年(明治20)のことである。翌年の2月3日、東京築地の新栄教会で「日本語聖書翻訳完成祝賀会」が開かれ、その翌年(明治22)に米国聖書会社から1冊に綴じられた旧新約全書が出版された。『引照 舊新約全書』である。
大隈文書の写真の聖書は、この『引照 舊新約全書』を装幀したものであろう。写真を撮影した日下部金兵衛が横浜本町に写真館を開いたのが明治23年であるから、時期的にも符合する。
写真の聖書が和訳聖書であると考える根拠として、背表紙に「引照」という語が使われていることをあげておきたい。「引照聖書」とは、記号の付いた個所に対照する別の聖書箇所を記した欄外註付聖書のことである。わが国ではそうした聖書には、一貫して「引照(付)」という表記が用いられている。
この「引照」という語は実は大変興味深い語である。ヘボンの名著『和英語林集成』にも、江戸後期および明治初年の英和・和英辞典にも「引照」という語はみられない。当時発行されていた英漢字典でreferenceをあたっても、「引照」という語を見出すことはできなかった[注7] 。現代の『大漢和辞典』(大修館書房 昭和32)にも「引」で始まる漢語の見出し語が198あげられているが、「引照」という見出し語はなかった。つまり、「引照」は本来の漢語ではない、ということである。
- [注7] 余談である。これを調べるにあたり、筆者はW. H. MEDHURST, English and Chinese Dictionary (Printed at the Mission Press 1847)を用いた。ごく早い時期に上海に渡った英国人宣教師メドハーストが著した貴重な英漢字典である。幸い筆者はこれを国会図書館で閲覧することができた。Vol.1とvol.2の2冊からなっているが、驚いたことに、そのどちらにも扉に「A. Mori 1871」と記されていた。森のサインである。これは森有礼の蔵書だったのだ。森が外交官として米国に出立したのは1871年1月であるから、おそらく着任後あまり日を経ない頃に入手したものであろう。森が国会図書館の設立とその蔵書に深くかかわっていたことについては、『森有礼が切り拓いた日米外交』の第3部 第3章「森有礼と図書館」に詳述したが、それから150年ものちの一研究者にその恩恵を与えてくれたことに、感慨と感謝の思いを抱いた。
日本語辞典についても同様である。今日においてさえ、「引照」という見出し語を採録している辞典はきわめて限られている。筆者が調査した大型辞典を含む日本語辞典12点のうち、同語を採録しているのは4点(うち2点は同じ出版社)であった。
『新潮現代国語辞典』(昭和60)は「引きあわせて比べること。照合すること」と語義を説明したのち、例文として正宗白鳥の「何処へ」(1908)から、「この中の要点は一々原書から直接に引照したのだから」という一文を引いている。
『日本国語大辞典』(小学館)は、昭和56年の初版では「引き合わせてくらべること。文献などを調べて照合すること」と語義だけが記されていたが、2001年発行の第2版では、同じく正宗白鳥の「何処へ」から例文をあげている。なお「補注」として「明治19年に『引照 新約全書』が発行されている」(明治13年出版の『引照 新約全書』のことか)との加筆がある。
正宗白鳥(1879-1962)は明治から昭和にかけて文壇で活躍した人物で、青年時代にキリスト教の洗礼を受けている。「引照」という語が用いられている「何処へ」は、彼が本格的に文筆活動に入って発表した最初の作品であるから、「引照」は引照付聖書から身についた語であったと考えてよいだろう。
もうひとつ「引照」を採録した金田一春彦、池田弥三郎編『学研国語大辞典』(1990)では、語義を「他のものとひきくらべること」とし、例文を丸山真男「憲法第九条をめぐる若干の考察」(『世界』岩波書店1965)から引いている。丸山もまた、東大時代の指導教官南原繁とのかかわりを通して、引照付聖書は身近にあったであろう。
以上から考え得るのは、「引照」という語は、それまで日本で使われていた語でも既に存在していた漢語でもなく、聖書の和訳が完成し、それを出版する際に生み出された造語であった、ということである。聖書の和訳に際して漢訳聖書が重要な役割を果たしたことはよく知られているが、「引照」は漢訳聖書に依拠したのではなく、わが国で独自に造り出された語であった。またそれはもっぱらキリスト教界のなかで生きてきた語であって、現在の辞典類の多くが見出し語に採録せず、また採録した少数の辞典があげる例文がキリスト教とかかわりのある人物の文章のみであることからみて、今日に至るまで一般社会に浸透していない特殊な語であると言ってよいであろう。このことから、写真の『引照 舊新約全書』は和訳聖書であったと断定することができるのである。