第2部 大隈文書中の聖書の写真
第2章 もう一枚の聖書の写真
大隈文書の聖書の写真に関連して、もう一枚の聖書の写真についても述べておかねばならない。
佐波亘『植村正久と其の時代 第4巻』(教文館 昭和13)に掲載された聖書の写真で、「明治天皇 献上の聖書」との表題がついている。
佐波亘『植村正久と其の時代 第4巻』
写真には次のようなカッコ書きの註がついている。
- (註 明治三十年 1897 東京基督教青年会館に於ける第九回福音同盟会総会にて。議長宮川經輝、副議長本多庸一)
さらに以下の解説がある。
- 聖書献納委員山本秀煌氏の報告あり。曰く『聖書購入の為め各教会の献金已に二百円に垂んとす。されど委員の不行届なる未だ製本を成就する運びに至らずとて其表紙の見本を示されたり。表紙は絹地に金糸もて菊の御紋章を縫ひたるものなり』(同書338頁)
この写真の聖書は、大隈文書の写真の聖書と同一の聖書ではないか。表紙の文様の細部に至るまで異なりはない。また写真自体も、大隈文書の写真と同一の写真とみて間違いないのではないか。大隈文書の写真は、表表紙と裏表紙それぞれを撮影した2つのカットを1枚に仕立てたものであるが、これはその右半分、表表紙の部分である。

大隈文書中の写真の右半分
説明によれば、この写真は明治30年に開かれた第9回福音同盟会総会において、「聖書献納委員山本秀煌氏」により、献上聖書の見本として提出されたものであるという。
聖書献納はこの2年前に開かれた同会の第8回総会において決定されていた。その模様を報じた『福音新報』によれば、聖書献上が議題に上ったのは総会2日目冒頭であった。
- 議事は調査委員の撰定によりて第一に長田時行、瀬川浅の二氏より別々に呈出になりたる聖書献納の件を議せり。種々の修正、論議ありし末、天皇陛下へ一部、皇太子殿下へ一部を献納することを(中略)満場一致を以て議決せり、献納文案は、山路、細川、村田の三氏之を草し。費用は先つ同盟会に集りし議員及傍聴人より之を募集し(此金三十幾円なりき)其余は各地の有志者より寄附を請ふこととなりたり。而して其事務委員は相原、長田、山本(秀煌)の三氏、此れが奉呈委員は同盟会正副議長と決議せられたりき。(『福音新報』第218号)
同様のことを『基督教新聞』第616号も伝えている。
早速、総会当日の参加者から30数円が集まり、残りは各地の有志から寄付を募ることになった。『基督教新聞』第725号によれば、その額は2年後に開かれた第9回総会時には、197円8銭2厘になっていた。しかしいまだ製本の完成に至っていないとして、山本は表紙の見本を提示したという。
この写真がこのとき山本が提示した「見本」なのであろうか。だが、この写真の聖書は明らかに完成品であって、どう見てもこれから製作される装幀の「見本」ではないように思われる。あるいは、この写真は「見本」に基づいて作成された完成型、すなわち文字通り「明治天皇 献上の聖書」の写真なのであろうか。どう考えたらよいのであろうか。
献上聖書の「見本」が提示された第9回総会の次の総会は、明治32年4月大阪にて開催と告知されていた。しかし直前に変更され、同年10月に東京にて開催と公告された(『福音新報』196号明治32年3月31日)。ついでさらに延期され、第10回総会は当初の予定からちょうど1年後の明治33年4月に大阪にて開催された。総会延期の理由は不明である。
第10回総会について報じた『福音新報』253号(明治33年5月2日)に、聖書献上に触れた1行がある。「福田錠二氏会計の報告、及び前年両陛下に新旧両約書を献納せる顚末を述べられ、移れる時を以て一先ず散会せり」。前年、つまり明治32年(1899)に聖書献上が実現したというのである。聖書献納を決めたときの詳細な議事内容に比べるとかなりそっけない記述である。
明治32年に聖書が献上されたという事実を確認するため周辺資料をあたってみた。山本秀煌については近年伝記が出ている(岡部一興『山本秀煌とその時代』教文館2012)。同書により山本の日記が明治学院大学歴史資料館に所蔵されていることを知り、閲覧させていただいたが、残念ながら日記は部分的であり、関係する時期の日記はなかった。他のキリスト教関係新聞各紙や、多少とも関係するであろう人物たちの日記や著作物等にもあたったが、聖書献納に関する言及はまったくみられなかった。あれほど華々しく取り扱われた聖書献納という事業であったが、その準備過程についても、献納の際の具体的事実についても、誰も何も語っても記録してもいないのである。
山本は聖書献納が報告された第10回総会から数か月後に、米国アーバーン神学校に留学した。1年後に帰国した後は、山口、大阪の教会で牧師として働き、明治42年に明治学院神学部の教授となりキリシタン史の研究を精力的に発表した。大正7年に日本基督教史編纂事業がたちあがると、その委託を受けて、初めてプロテスタント史をまとめ始めた。その最終版として発表されたのが山本秀煌編『日本基督教会史』(日本基督教会事務所 昭和4)である。山本はそのグラビア頁に「明治天皇献納聖書」というキャプションをつけて下の写真を掲載した。

山本秀煌編『日本基督教会史』
『植村正久と其の時代』に「見本」として掲載されている写真とまったく同じ写真である。しかしどうしたことか、山本はグラビアに聖書の写真を掲載しているものの、本文中にはこれに関係する記述をしていないのである。
以上のように、筆者には明治32年に聖書が献上されたという事実を確認することはできなかった。従って本稿では、キリスト教関係団体による明治32年の聖書献上についてはこれまでのところ確認できていない、という報告にとどめたい。
ただし、この写真の聖書と写真そのものについては確実に言えることがある。これは大隈文書に所蔵された写真の聖書と同一の聖書であり、またその写真は日下部金兵衛によって撮影されたものである、ということである。
山本が、金兵衛が撮影したこの写真をいずれかの時点で入手したことは確実である。おそらくは聖書献上についての動議が承認され、彼が「聖書献納委員」に任命された明治28年以降の準備過程で、直接金兵衛から写真を手にする機会があったのではないか。金兵衛は明治18年に横浜海岸教会で洗礼を受けたのち、教会で活動し続けた著名な信徒であった。聖書献納というキリスト教界あげての大きな取り組みに際し、金兵衛みずからがかつて撮影した聖書の写真を、準備にあたる山本秀煌に「見本」として見せたことは大いに考えうるであろう。