第2部 大隈文書中の聖書の写真

  第3章 聖書の写真はなぜ大隈家にあったのか


諜者報告書はなぜ大隈家に所蔵されていたのか

では、そもそもなぜ、大量の諜者報告書とその関係文書は大隈家に所蔵されていたのであろうか。

すでに述べたように、諜者は当初弾正台に属していた。しかし明治4年の官制の再編に伴い、同年7月弾正台は廃止され、諜者、特にキリスト教関係の探索を命じられた異宗諜者たちは、年末には太政官に直属することになった。

異宗諜者が太政官に直属することになるこの時期、政界は激変の時を迎えていた。岩倉使節団が米欧に出発することになったからである。度重なる官制の変更が示すように、明治初年の政治体制はきわめて流動的であったが、使節団の派遣により政権から中心的人物がごっそり抜けたことは留守政府に影響を及ぼさずにはおかなかった。当時参議であった大隈重信は、使節団派遣当時の太政官のメンバーについて次のように述べている。

  • (ひるがえっ)て内を顧みるに、留りて内閣を組織せしものは、三条、西郷、板垣及び余の四人なりき。その中にも三条は、従来の地位と声望とに因りて内閣の首班たるものにして、その実際は徒(た)だ員にその列に加わわれるもののみ。西郷、板垣は維新の前後よりしてその名声頗(すこぶ)る赫々(かくかく)たりといえども、これまで多くはその藩に蟄伏(ちっぷく)して毫(ごう)も中央の政府に預らず、そのこれに預かりたるは廃藩置県の後にして、しかもなお僅々(きんきん)三四ケ月間に過ぎざるを以て、内閣及び各省間の事情は言うまでもなく、一般中央の政治を執行するに於ても、未だ能く通暁するに迨(およ)ばざりし。これ不憫(ふびん)を以て辞せず。予の内閣員として内外の衝に当り、その実権を握り、実務を執(と)るの已(や)むを得ざりしゆえんなり(『大隈重信自叙伝』岩波文庫247~278頁)

岩倉具視を正使とする使節団は明治4年11月12日に横浜を出港し、当初の予定をはるかに超えて、1年半を超える長きにわたって本国を留守にした。大隈の言葉によれば、使節団には「時の内閣の大立者、政治の原動者として重望を嘱せらるる木戸、大久保」が副使として加わっていた。大隈が述懐するように、大立者たちが留守のあいだ、太政官において大隈が「その実権を握り、実務を執」ったことは十分に考えられよう。

異宗諜者たちが太政官のもとに組み入れられたのはまさにこの頃であった。大隈文書に「異宗探索諜者人名」という太政官の用箋を用いた書付がある。各開港地に派遣する諜者の名と等級および報酬を記したもので日付はないが、村田格山「明治初期の太政官諜者―所謂禁教高札撤廃前夜の一考察」(『宗教研究』第5年2集 昭和18)により、同文書は明治4年9月24日以降、10月15日以前のものであることが特定されている。ただしこの書付にある諜者名にはその後いくつか変更があること、またここに名があげられている諜者のひとりが書いた文書に12月着任とあるので、実際に彼らの多くが太政官諜者に任命されたのは明治4年11月以降であったと考えられる(具体的時期の検討過程は『関信三と近代日本の黎明』に記した)。まさに岩倉使節団の出発と相前後する時であった。太政官直属となった諜者たちは忠誠を誓い、各開港地に散って刻々とその地のキリスト教事情を報告し続けた。

こうした背景を改めて振り返ってみると、諜者らが届け続けた報告書を読んでいたのは、事務担当者(真宗東西両派出身の諜者たちを束ねていた小栗憲一 [注8] がその代表といえる)を除けばごく少数であったことに気づかされる。諜者報告書を掌握していたのは太政官を実質的に仕切っていた大隈重信である。そして実際に報告書を読んだのは三条と大隈であったろう。しかし三条は全部を読んでいたわけではないようなのである。報告書には朱で通し番号が振られている。欠号も多いのであるが、諜者某、すなわち豊田道二の一連の報告書のなかに、「第74号より81号まで三条殿に呈し置候」という貼紙が付いているものがあった。つまり、すべては大隈の元に集まり、そのなかから全部ではなく、内容を選別して、一部の報告書だけが三条に回されたということである [注9] 


  • [注8]  小栗憲一 真宗大谷派の僧侶。大谷派の学僧豊後妙正寺香頂の弟で、幕末に長崎で降魔窟というキリスト教排斥を目的とする結社を作り、東西本願寺の破邪僧を結ぶ要として活動した。早い時期からの弾正台官吏で、諜者報告書には「小栗大先生」宛のものもある。
  • [注9]  ここで三条実美と諜者豊田道二の関わりについて一言ふれておきたい。明治6年2月に切支丹制禁の高札が降ろされるが、その直前、三条は上等諜者であった豊田道二ほかふたりの諜者を呼び寄せ、直々にねぎらいの言葉と報奨金を与えている。「三条殿に呈し置候」とある一連の報告書が三条に届けられた直後のことであった。 諜者たちは「以来一層ノ勉力」をしてきたが、すでに自分たちの存在はむなしいと悟っていた彼らは、同年10月に「西教蔓延防止困難ニ付取扱掛及諜者一同免職願書」を提出した。だが、そのとき免職が認められることはなかった。諜者は外国人の内輪の動きを知らせる手段として、依然として機能していたからである。しかし翌7年7月、諜者たちは「贅物」として一斉に解雇を言い渡されてしまう。すでに(関信三を含め)半数がみずから辞職していたが、残っていた者たちは突然行き場を失い、途方に暮れた。その際、三条は諜者たちの不満をしずめるためであろう、豊田道二をいわばお抱え諜者として引き取ったのである。豊田はそれからおよそ1年半にわたり、毎月1通 「東京耶蘇教事情書」と題する報告書を三条に提出した。 以上については拙著『関信三と近代日本の黎明』(173~178頁)、および『幼稚園誕生の物語 ―「諜者」関信三とその時代』(100~110頁)に詳述した。


筆者の私的な感情ではあるが、いささかなりと諜者個人の心情を察する機会を得た者として、彼らのために無念の思いを抱いてしまう。弾正台の廃止後、太政官直属諜者となった安藤劉太郎(関信三)の最初の太政官宛文書は、報告書というより涙告の書ともいうべき文書であった。彼はその長い文書の最後に「憂国の赤心より御内命を奉戴し、千苦万辛つぶさに死地に入りて彼らの挙動を注視し、日々尽力するところなり。しかれどもそれは所詮枝末の防邪にて、根本防邪の廟議が確定されなくば、枝末にあって何程尽力するといえども何所に実効顕るべきや。しかしながら、諜者は千里の外より彼が情実を奉告する伝言機械なれば、廟堂の君子、何をもって防邪の方向を立て給うや」(明治5年3月付)と記した。彼らは「廟堂の君子」の誰たるかを知らず、「伝言機械」として、ひたすら報告書を届け続けていたことになる。

諜者はその性質から表舞台に出ることはないため、彼らの報告書も公文書の扱いを受けることはなく、また異宗諜者廃止後は関係役人も他の部局に転任してしまったため、結果として大量の報告書は大隈のもとに私蔵されることになったのである。大隈は大正11年1月10日に没した。大隈の死後、貴重な文書類が遺族により早稲田大学図書館に寄贈された。寄贈は、大隈の死後間もない大正11年4月と昭和25年の2回に分けてなされた。諜者報告書は最初の寄贈分に含まれていた。報告書にも、聖書の写真の裏にも、「大正十一年四月 大隈侯爵邸寄贈」の印がある。


聖書の写真を諜者報告書とともに保管したのは誰か

この写真は先に述べたように明治20年代に撮影された写真であった。なぜ献上聖書とみられるこの写真が大隈家にあったのか。またなぜその写真が、聖書献上を報じた明治5年の諜者の手紙とともに保存されていたのであろうか。

大隈文書の諜者報告書を最初に本格的な研究対象としたのは小澤三郎氏であった。氏は昭和8年に早稲田大学文学部史学科を卒業し、大学院に進んだ。氏が諜者報告書の翻刻を含む『幕末明治耶蘇教史研究』を亜細亜書房から出版したのが昭和19年であるから、その間に報告書に詳細に目を通したことになる。氏は聖書献上を報告した諜者の手紙も翻刻されているが、しかし写真については一言もされていない。大量の翻刻作業に没頭し、写真は傍らにおいてしまったのであろうか。筆者にはこれが最も気にかかるが、写真には「大正十一年四月 大隈侯爵邸寄贈」の印があることから、文書寄贈後に文書を整理する過程でどこからか紛れ込んだのではなく、大隈家からの寄贈文書に含まれていたことについては間違いがない。

小澤氏の研究発表後諜者報告書に対する関心が高まるが、小澤氏以降諜者報告書に本格的に触れたのは、研究者ではなく、大隈文書をマイクロフィルム化した際の業者であったろう。大隈文書は1977年に雄松堂出版によりマイクロフィルム化されたからである。2002年に筆者が初めて諜者報告書の原本を閲覧したとき、写真は小型の白い洋封筒に入れられて当該文書とともに収蔵されていた。

ここでぜひとも付言しておきたいことがある。すでに何度も述べてきたように、筆者が諜者報告書類を閲覧したとき写真は明治5年9月27日付の手紙とともに保管されていた。1977年に雄松堂出版が作製したマイクロフィルムもその順序で撮影されている。ところが近年早稲田大学図書館が新たに作成公開したデータベースでは、写真は当該文書と切り離されて、一連の文書のかたまりの最後に置かれている(古典籍総合データベース「耶蘇教諜者各地探索報告書」のNo.1のファイルには全79カットが収められているが、当該文書は50-51番目に、写真は最後尾の79番目に置かれている)。本文書における写真の位置には意味がある。位置を変えて発表されたのは大変残念であり、今後の研究に支障が出ないことを望む(元に戻していただければ幸いである)

では、写真をその位置に収めたのは誰であろう。写真をそこに収めるには、聖書献上を急報した諜者の手紙の存在を知っている必要がある。それが大隈の遺族であったはずはない。諜者報告書は大隈の没後ほどなく寄贈された大量の文書に含まれており、遺族が内容を吟味するいとまはなかったからである。

そこに写真を収めたのは大隈重信自身であったに違いない。大隈はその手紙の存在を知っていたばかりでなく、それを読んだおそらくただひとりの「廟堂の君子」であり、その手紙を私有した人物であった。これをさらに踏み込んで言うなら、先に述べた当時の太政官の状況からみて、明治5年に聖書の献上を許したのは大隈重信その人であった、ということにならざるをえない。明治5年、米公使チャールズ・デロングが聖書献上の話を持ちかけたのは外務卿副島種臣に対してであった。しかし禁教下、外務卿に独断で「邪教の経典」を天皇に呈する許可を出す権限があったとは思えない。この件は太政官に持ち込まれたはずなのである。ふたりは受諾で一致する。


大隈は、信仰の対象としてではないが、聖書に親和性を持っていた。大隈重信は幕末維新にかけて最も聖書に接した政治家であったろう。彼は米国オランダ改革派の宣教師フルベッキ(G. H. F. Verbeck 1830-1898)を通して英語や海外の思想文物を学んだ。フルベッキは幕末維新に活躍した多くの気鋭の青年たちを教えているが、大隈はその中心的な人物のひとりであった。佐賀藩が英学研修のため長崎に設けた藩校致遠館は、もとは慶応元年に大隈が中心となって商人たちから寄付を集めて開いた私塾であったが、大隈は当時長崎奉行所の済美館の教師であったフルベッキをその校長として招いた。学頭になったのは、大隈より10歳年長の副島種臣であった。

このふたりについて、フルベッキは彼を派遣した伝道団体の主事J. M. フェリス宛の1868年5月4日付手紙のなかで次のように述べている。

  • 一年あまり前に副島と大隈の二人の有望な生徒を教えましたが、これら二人は新約聖書の
    大部分と米国憲法の全部とをわたしと一緒に勉強しました。前者(副島)は現在旧い帝国
    の制度を改正して最近できた都の政府の会議の新しい参議であり、後者(大隈)は九州全
    体の総督の一員であって、新政府の憲法の改正に関連して、首都[都]に向けて数日のう
    ちに出発する予定です。
    (高谷道男編訳『フルベッキ書簡集』125頁  新教出版 1978)

大隈と副島はフルベッキから新約聖書の大部分と米国憲法の全部とを学んだという。中央政府に躍り出た彼らは、1869年春、フルベッキを東京に迎えた。フルベッキは開成学校で教え、また新政府の顧問となる。フルベッキが維新期のわが国に確かな足跡を残したことについて異論はないであろう。フルベッキは鎖国中の長崎時代からアメリカへの留学生の斡旋や留学生たちの細かな世話もしていた。この時代にアメリカに渡った者のうち、何らかの形で彼の世話にならなかった者はいないのではないか。彼が岩倉使節団派遣のもとになった海外派遣使節団の企画書(ブリーフスケッチ)を早い時期に大隈に手渡したことも知られている。みずからその任にあたろうとした大隈は、結局は残ることになったが。

使節団米欧回覧中の明治5年9月末、大隈は副島を通して聖書献納の話が米公使デロングから持ち込まれたことを聞く。「欧米の諸外国人は、我が日本を以て半開の国と為してこれを軽侮」(前掲『大隈重信自叙伝』242~243頁)している。その状況を打破するため、わが政府の要人たちが大挙して世界行脚の旅をしている。そんな今、聖書の受納は国内からの援護射撃になるであろう...。大隈にとって聖書は敷居の低いものであった。大隈の内的心情としても、また政治の大局的立場からも、大隈に聖書献納の申し出を拒否する理由はなかった。大隈はデロングの「申し出」を「圧力」としてではなく、むしろ国益にかなうとして受け入れたのである。デロングが天皇の自筆返書を要求したとき副島がその場で受諾したのは、大隈と副島のあいだでこの件についての意思の確認があったからであろう。そこにはわが国が置かれていた時代背景があり、そしてまたフィッシュや森有礼との外交についての考えの違いがあった。

それがなぜ「この良吏は永久その職を奉ぜしめたく、我皇帝陛下切々希望いたされ候」という書簡につながるのかについては、別に考えねばならない政治外交史研究における重要な課題ではないだろうか。



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